『栄花物語』
『栄花物語』は平安時代後期の歴史物語。宇多天皇から堀河天皇までの十五代、二百年間の歴史を、年月を追う編年体で記述。書名は藤原道長の栄華を中心に描くことからの命名。全四十巻。正編(前の三十巻)は藤原道長没後数年の一〇三〇年頃成立、赤染衛門が編集の総括者だという説があるが未詳。続編(後の十巻)は一一〇〇年頃の成立。天皇・貴族・女房の生活やその明暗を、個人の内面にまで立ち入って描写し、特に道長の人間性や宗教人としての姿が詳しく描かれている。後に成立した『大鏡』もほぼ同じ時期を描くが、『大鏡』には道長への批判精神も多く見られるのに対して、『栄花物語』は批判性は乏しく、道長を賛美することに終始している。
夫の後一条天皇の死の悲しみに暮れていた中宮威子は天然痘にかかり、それを口実にして、人々に惜しまれながら出家した。
威子はそのまま、三日後にこの世を去る。残された皇女たちや女房たちの悲しみは深い。まるで夫の後を追うかのような死であった。
皇女たちが母威子を見舞ったのはつい先日のことで、その髪はいまだに美しかった。
悲しみに暮れる女房たちは威子の亡骸の世話をした。
兄の関白頼通は後一条天皇崩御の後の大嘗会の儀式に忙殺されていたが、時間ができると威子の死の悲しみがつのってきた。姉の彰子は、夫の後を追うように亡くなった威子をうらやむほど悲しみに沈んだ。
威子がいた鷹司殿は折しも人恋しさのまさる秋の季節でもあり、その昔、宇多天皇の女御温子が世を去った折に歌人の伊勢が歌に詠んだように、ものさびしさがあふれるばかりであった。
語句の意味を問う設問。
古文単語は頻繁に大学入試で出題されるが、この問一のように直接問われなくても、現代語訳問題、内容説明問題において、また設問にならなくても本文の文脈把握において重要である。単語のみならず、古文に頻出する表現は、単語集などを中心に学習しつつ、試験や授業のプリントで出てきた用例を積極的に覚え、実践的に語彙を増やしておく必要がある。
「例」は「通例」を意味し、この形の他に「例の」(いつもの/いつものように)の形でよく用いられる。それが「ならず」と否定されているのだから、「いつもとは違って」というのが「例ならず」の意味である。したがって「日頃とは異なり」のウが正解。「例ならず」には、「病気である」「体調がすぐれない」という意味もあるが、エは「ものの」という訳出の部分が不適。
「はづかしげなりし」は形容動詞「はづかしげなり」の連用形「はづかしげなり」に〔過去〕の助動詞「き」の連体形「し」が接続した形である。「はづかしげなり」は他人と比較して自分が劣っていると感じているという、現代語の「恥ずかしそうだ」に通じる意味がもともとだが、古文ではもう一つ、ここから派生して、「(こちらが気後れするほど)優れている」という肯定的な評価の用法がある。どちらなのかは文脈で判断しなくてはならない。見ると、御髪が「きよらに(=美しく)」、「つゆもまよはせ給はず(=まったく乱れなさらず)」という肯定的な評価に続けて使われているので後者であるとわかる。見ている側が「恥ずかしくなるほど」優れているという意味であること、さらに「重りかに」は漢字からわかるように「重々しい・たっぷりとした」という意味で、女性の髪の毛は豊かであるのが優れているとされていたことなどから考えて、正解はエの「立派であった」である。
「おはしまい」は「おはしまし」のイ音便で尊敬の補助動詞、「し」は〔過去〕を表す助動詞「き」の連体形であるので、「ただ」でいらっしゃった時、となる。「ただなり」には「普通である」「直接である」「むなしい」といった意味がある。そして文脈から、二重傍線部ⓒは威子の死後と対比して使われていることがわかるので、威子が生きていらっしゃった時、という意味でとることのできるウが正解となる。
敬意の対象を確認する設問。
まずは波線部の敬語の種類と意味を確認しよう。これを間違えると正確な敬意対象の把握はできない。
波線部の「おはします」は尊敬語。直前の「さも」は指示副詞「さ」に係助詞「も」がついた形で、「そうでも」「そうでは」などと訳せる。ここでの「さ」はさらに前の天然痘を患うことを指す。主語は、直前に「中宮、」とあるので威子だとわかる。
波線部の「させ給ふ」は〔尊敬〕の助動詞「さす」に尊敬の補助動詞「給ふ」がついた形。尊敬+尊敬の二重尊敬、最高敬語である。直前の「ことづく」は現代語の「伝言する」の意味ではなく、「口実にする」の意。現代語の「かこつける」に近い。病気の話に続いて「悩ましさにことづけ」る、というのだから、「病気を口実にして」という意味だとわかる。
波線部の「せ給ふ」も波線部と同じく最高敬語、つまり尊敬語である。波線部の後にある接続助詞「て」はその前後で主語が変わりにくく、文脈上も、「病気を口実にしなさって尼になりなさった」と意味が通るので、波線部とは同じ主語であるとわかる。
波線部の「思しめす」は「思ふ」の尊敬語。「思す」よりもやや敬意が強い。直前の「さるべきこと」とは「当然のこと」「ふさわしいこと」といった意味。
波線部の「たてまつる」はこの中で唯一の謙譲の補助動詞。直前の「いみじ」は、肯定的な意味でも否定的な意味でも使われ、「程度がはなはだしいこと」を表す。ここでは直前の波線部を「当然のこと」と肯定的に評価した上で、「ながら」という逆接の接続助詞で波線部につながっているので、「いみじ」は否定的な意味で使用されており、「ひどく悲しい」などと訳せる。主語は威子の母の「鷹司殿の上」や「さぶらふ人々」つまりおつきの者たち。彼女たちが「(何か・誰かを)悲しいことだと見申し上げる」ということになる。
突破口
敬語の種類と敬意の対象
つまり、いずれも尊敬語である波線部〜の敬語の敬意の対象は動作の為手、すなわち主語となる。とすると、波線部は前述の通り威子が主語なのでそのまま敬意の対象は威子。波線部とは前述の理由から同じ主語を持ち、さらに読み進めていくと威子が出家したことがわかるので、これらも波線部と同じく主語・敬意の対象ともに威子である。
波線部とはどちらも主語が鷹司殿の上やおつきの者たち。そして波線部は尊敬語であるので、敬意の対象も同じとなり、これが正解である。波線部について確かめてみると、謙譲語である波線部の敬意の対象は「ひどく悲しい」と「思われる」人。これは、病気をわずらったのだから当然のこととは思われながらも、美しい髪を切ることを惜しまれている威子である。
出家の理由と周囲の反応
病気は現代でも恐ろしいが、昔のそれは現代の比ではなかった。大病をわずらえばそのまま世を去ることも珍しくなく、それゆえ、病気にかかった人が仏の救いを求めるために出家することも多かったようだ。また、近しい人が亡くなった時にもその人の極楽往生を祈るために出家する例も多かった。それらの出家は他の人々からは「さるべきこと」つまり「当然のこと」ととらえられたが、しかし同時に、出家は俗世から去ること、様々な絆を断ち切ることでもあったため、「いみじ」と惜しまれることも多かった。こうした当時の人々の考え方も知っておくことが古文を読む重要な意義の一つであると言えるだろう。
現代語訳の設問。
突破口
現代語訳問題では、まず品詞分解をして逐語訳し、それから文脈に照らし合わせて正しい訳を作ること。なんとなく文脈だけから訳そうとすると、思い込みで誤解してしまったり、重要な要素を落として減点されてしまうことがある。簡単でかまわないから品詞分解してみることだ。
前半と後半に分けて見てみよう。「めでたし」は「すばらしい」と訳せることが多いが、余裕があったら、どうすばらしいのかを考えてよりふさわしい訳に直したい。この場合は当時の女性の髪の毛についてであるから「美しい」が妥当だろう。「削ぎ果て」の「果て」は終止形「果つ」。他の動詞につくと、「すっかり〜する」という意味を持つ。現代でも「疲れ果てる」などの形で使う。「削ぐ」は現代語にも残っているが、髪の毛を短く切り落とすという意味。当時の女性の髪は長い方が美しいとされ、身の丈ほどの長さの髪の女性もいたが、尼になると肩のあたりで切りそろえた。現代の感覚ではむしろ長髪といってよく、出家でもなんでもないように思うかもしれないが、この髪型は「尼削ぎ」と呼ばれ、出家した女性の髪型であった。いわゆる坊主頭にしてしまうわけではないので注意しよう。「たてまつり」は問二に出てきたように謙譲の補助動詞。「〜申し上げる」などと訳す。「つれば」は、已然形+「ば」で順接確定条件を表し、「〜てしまったので」と訳せる。直訳は次のようになる。
たいそう美しい御髪をすっかり切りそろえ申し上げてしまったので
問題は後半だ。「異人」は「異(なる)人」で、「別人」の意。「に」は直後に「あり」の尊敬表現である「おはします」が来ているので、〔断定〕の助動詞「なり」の連用形だとわかる。「おはします」は係助詞「も」に接続しているので連体形。体言の代用をする「準体法」で、「こと」「の」「もの」などを補い、名詞化して訳出する。この場合は、準体助詞といわれる「の」を補うことになるので、直訳すると次のようになる。
別人でいらっしゃるのも
設問には「わかりやすく」とあるが、「わかりやすく」するためには、①省略された主語を補ったり、②比喩や省略のあるわかりにくい表現を平易な表現に変えたりすることが求められる。この設問では、「削ぎ果てたてまつり」と「おはします」の主体である「威子」を補い、「異人に」を単に「別人で」とせず、「すっかり別人のようで」などと整えるとよい。
現代語訳の設問。
これも現代語訳問題なので、まず品詞分解して逐語訳してみる。
突破口
「失す」は「死ぬ」の婉曲表現。「させ給ふ」は尊敬語(最高敬語)。「ぬれば」は問三同様、已然形+「ば」の順接確定条件を表す。「やる」が「言ふ」について補助動詞として使われているが、この場合の意味は「〜し尽くす」となる。なお、「言ひやる」を一語ととる場合もあるが、意味は同じで「最後まで言う」などと訳出できる。「ん」は助動詞「む」で、文中では連体形であるので意味は〔婉曲〕であるとしておく。「方」はここでは「方法」の意。ここでも「いみじ」は問二波線部の解説同様、文脈から否定的な意味と考えられ、「悲しい」と訳す。すると直訳は次のようになる。
最後は「わかりやすく」しよう。「させ給ふ」の最高敬語が使われていることや、天然痘にかかっていたことから、亡くなったのは威子だとわかるので、主語として補っておく。また「言い尽くすような方法がないほど」は少しぎこちないので「どうにも言いようがないほど」などと整えてやるとよい。なお、「言ひやらん方なし」は「言はむ方なし」に補助動詞「やる」が加わった形と考えることもできる。「言はむ方なし」はいわば成句で、「言いようもない」の他に「この上ない」と訳すことも多い。「やる」を加えたのはそれをさらに強調するためととり、「これ以上ないくらい」と訳すこともできる。
「死ぬ」の婉曲表現
「死」は当時の人々にとって忌むべきことであり、「死ぬ」ということ、特に身分の高い人のそれを直接口にすることははばかられた。そのため、古文には多くの、「死」を表す婉曲表現が登場する。一方、古文を読み解く側である我々にとっては、人の「死」は大きなポイントになるので、こうした婉曲表現はしっかりおさえておきたい。ただし、「死」を表さない場合もあるので、文脈と照合すること。
・「この世からいなくなる」という意味から
失すかくる世をそむく(「出家する」の意味でも用いられるので注意)
・「無に帰す」という意味から
いたづらになるかひなくなるはかなくなるむなしくなる
・「生涯を終える」という意味から
卒す
心情把握の設問。
現代文の小説問題と同じように、登場人物の心情を文脈に即して正しく読み取っていくことは、かりにそれが問題として出題されていなくても、古文読解の上で非常に重要である。そして問題として傍線部を設けて出題された場合には、まず傍線部をできうる限り正確に理解した上で、前後の文脈や表現、語注、単語の知識、文法事項、古典常識、時には一般常識まで駆使して解いていくことが求められる。
まず、内容説明や心情説明問題であっても、傍線部は必ず訳してみよう。「ものおぼゆる今日いかにせん」は、「ものが思われる(わかる・覚えている)今日はどうしようか、いや、どうしようもない」などと訳すことができる。もちろんこれでは何のことだかわからないので、傍線部③の前後を見てみる。この文章は威子の死をめぐり、娘たち、仕えていた女房たち、姉であり夫の母でもあった女院といった残された人々の悲しみが次々に描かれていくが、設問文により、この傍線部はそのうちの、兄である頼通の心情を表しているとわかる。そうすると見るべきは「殿(=頼通)」で始まっている、傍線部③の前の部分ということになる。
殿は籠もらせ給はず、大嘗会、御禊などの事おこなはせ給へば、日ごろ過ぎ、のどやかなるしも、もののあはれなることはまさりゆく。
語注にある通り、頼通は、リード文にもあった後一条天皇(威子の夫)の死に際し、関白として、新天皇即位のための大嘗会の儀式を執り行っていたため、威子の回復を祈ったり、死を悼んだりするために籠もることをしていなかった。「〜せ給へば」は順接確定条件だから、そのことが原因となって後半のような状況が生じた、と読み取れる。では「日ごろ過ぎ、のどやかなるしも、もののあはれなることはまさりゆく」とはどういう状況か。
大嘗会を取り仕切っていた頼通は妹の死にも立ち会えないような忙しい日々を送っていた。それが「日ごろ過ぎ」つまり日にちが経ち、「のどやかなる」日になってようやく、「もののあはれなること」簡単に言えば「もの悲しさ」がつのってきた、と読むことができる。ちなみに「しも」は〔強調〕の副助詞。
「ものおぼゆる今日いかにせん」に続く「とは、まことにぞ」という言い方から、傍線部が当時の慣用的な言い回しであったことは推測でき、それが頼通の置かれた状況、心情にあてはまったということであろう。となれば、「ものおぼゆる今日」とは、儀式も終わり、「のどやか」であるがゆえに、物事をしっかりと感じ、考えることができる今、ということになり、また「いかにせん」つまり「どうしようもない」のは直前の「もののあはれなること」つまり妹である威子を失った悲しみということになる。このような心境を説明している選択肢はエしかない。
アは「良心のとがめ」が言い過ぎ。また、「今」がどういう状況かが説明しきれていない。イは「よみがえってくる威子との思い出」が文中から読み取れない。ウとオは「今」を「やるべき仕事が手につかない」「忙しさのあまり、威子の死の悲しみにひたることもできない」としている点が、実際には現在は「のどやかなる」日であるという本文と矛盾している。
和歌に関する設問。
和歌は日本の代表的な韻文文学であり、古文に描かれる時代においては、美しい景色に感動したり、恋心をつのらせたり、悲しみを覚えたりした時にその心を表す手段として用いられ、さらには貴族のたしなみとしての社会的な働きも持っていた。日本に生きる者として味わっておきたい文化であり、大学入試において頻繁に出題されるのもそうした考えにのっとってのことである。本設問のような引用歌・背景にある歌についての出題も過去に大学入試センター試験などで例がある。
⑴は「句切れ」についての出題である。和歌の難しさの一つとして、句点がないため、どこが「文末」になるのかわかりにくく、意味がとりにくいという点が挙げられる(もっとも古文にはもともと基本的に句読点はないが、和歌以外の部分には活字になる際に多くの注釈者や出題者が句読点を施す。しかし和歌にはそうした場合でも句読点は振らない)。「句切れ」とはそうした「文末」であり、文字通り、和歌の「切れ目」である。したがってこれをつかむことは、単に和歌の表面上の問題ではなく、内容理解の上で非常に重要である。なお、「句切れ」は一つとは限らないので注意しよう。
突破口
「句切れ」の探し方のポイント
*「こそ」〜已然形は文末とは限らないので注意。
何のことはない、要するに文末に位置しやすい言葉を探すということである。ここでは初句の「あれ」が動詞「あり」の命令形なら②に相当するし、三句の「べき」は上に係助詞「やは」があり、その結びとわかるので③に該当する。ところが歌の意味を考えてみると初句では切れないことがわかる。「秋やは人の別るべき」とは直訳すると「秋に人が別れてよいであろうか、いや、よいはずがない」となる。となるとその前にある「時しもあれ」とは「時節は(たくさん)あるのに(よりによって)」という意味だと考えられる。「こそ」〜已然形の係り結びで文が終わらず、さらに下に続く場合には逆接を表すが、もともと已然形には逆接の働きがあったのである。したがって正解はウの「三句切れ」である。
⑵は和歌の引用の意図と効果を問う問題である。当時の人々は自分たちで和歌を詠むだけでなく、有名な古歌やその一部を引いて心情や状況を表した。現代で言うなら、互いに知っているヒットソングの一節や映画、小説、コミックなどの言葉を引いて、「○○みたいだよね」と共感しあうようなものである。ここでも、威子のいなくなった鷹司殿の秋の様子を表すのに『古今和歌集』の和歌を引いている。
さて、和歌は「句切れ」以外にも「掛詞」などの技巧があり、訳しにくいと感じがちだが、中にはほとんど散文のような歌もあるので、やはりまずは訳すこと。それから前後の文脈にあてはめてみる。引用歌を訳してみると、
となる。後半がわかりにくいが、少なくとも前後が倒置になっているのはわかるはずだ。さらに、後半に〔類推〕を表す副助詞「だに」(訳は「〜さえ」)が使われていることから、前半と後半は対比的な内容になっていると読める。そこであらためて前半と後半を比べてみると、「いるのを見る」とは前半の「別れて」と対比されるべき状況であり、「いる」の主語は「恋しい」人だとわかる。もう一度訳をまとめ直してみると、
次にこれを本文の状況にあてはめてみる。「愛しい人」とはもちろん威子のこと。「いる」とはただ一緒にいるのではなく、「生きている」ことであり、「別れ」とはただの別れではなく「死別」であるとわかるだろう(「あり」には重要な意味として「生きている」という意味がある。「ありし日の⋯⋯」などの表現は現代にも残っている)。直前に「ころさへいみじうあはれに、秋の暮つ方」つまり「時節までもひどくもの悲しく、秋の終わり頃で」とあることからも、秋という季節が威子の死の悲しみを強め、また威子の死の悲しみが秋という季節特有のもの悲しさを強める、という、いわば相乗効果が、この引用の背景にあるとわかる。引用部を含む本文はこれらの悲しみやもの悲しさによって、荒涼とした鷹司殿の情景をさらに際立たせていることを示している。このような内容を説明した選択肢はウであり、これが正解である。ちなみに注の伊勢の歌も「荒れのみまさる」つまり「ますます荒れはてるばかりだ」と仕えた女御没後の居所の荒涼たる様子を詠んでいる。
アは「秋のさびしさ」を「忘れさせてしまう」とした点が誤り。右の通り、むしろ強調されている。イは「愛しい人がいてこそすばらしい季節となる」が言い過ぎ。愛しい人がいないと秋のさびしさはつのるが、逆もまた真なりとはどこにも書かれていない。エは「威子と、共に過ごす時間がもっとあればよかった」が、オは「しばらく忘れていた」がいずれも和歌や本文にないし、「あるを見るだに」つまり、「(特定の)人が生きていても秋はさびしい季節」という要素が欠けている。なんとなくそれらしい、という印象で選ぶのではなく、きちんと選択肢の文言と本文(今回は和歌も)を対照することが重要である。
心情説明の設問。
問五と同じく、心情を理解する問題においても、傍線部を訳した上で、文脈に照らしあわせて理解する。
二重傍線部には「宮は心にまかせたるやうにこそものし給ひけれ」とあるが、「宮」とは中宮である威子のこと。一方「ものす」は様々なことを「する」という意味のいわば代動詞であるから、「威子は『心にまかせたるやうに』なさった」と訳せる。ここで本文を見直してみると、第二段落の最後に同じような表現がある。「心にまかせたるやうなることは難きものを」がそれで、注より「望み通りになるようなことはなかなか実現しがたいものであるのに」と訳せる。となると、二重傍線部の訳は、「威子は望み通りになったかのようになさった」となる。リード文を読むと威子は夫である後一条天皇が病死して生きる希望を失っていたとあるから、「望み通りになさる」とは威子が愛する夫のもとへ行くことだと、少なくとも人々は考えていたとわかる。
続いて前後の文脈に照らし合わせてみる。二重傍線部の直前には「わが命長きこそ恥づかしけれ。」とあり、女院つまり、威子の姉である彰子が、自分だけが生き長らえていることをよく思っていないことがわかる。後ろを見ても「かく立ち後れたてまつりて、一日にてもあらんと思ひけんや」とあり、「後る」には「先立たれる」の意味があるから、訳すと、「このように先立たれ申し上げて、一日でも生きていようと思っただろうか、いや、思わなかった」と、二重傍線部の直前と似たような感情を表しているのがわかる。
「後る」という言葉は古文では人の死に際して使われ、「死に後れる」「先立たれる」などと訳すが、悲しみが強く、心が乱されている場合に多いようだ。特に、ここでの彰子は、よく関係図を見ると、既に相次いで父、夫、息子を失っていることがわかる。特に息子の後一条天皇の死から間もないときのことだったのはリード文や注7からもわかる。その上に妹であり、息子の妻でもあった威子を失った彼女の悲しみは想像するに余りある。生きている自分の身を責めたい気持ちになったとしても不思議ではない。そのような思うにまかせぬ身である彰子が威子について「心にまかせたるやうに」世を去った、と言っているのだから、そこにあるのが深い悲しみゆえの威子への「うらやみ」であることは容易に推測できる。
それでは解答をまとめてみる。二重傍線部は「宮は心にまかせたるやうにこそものし給ひけれ」であるので威子(宮)へのうらやみを解答の柱に据える。
これをつなげて、解答の字数に合わせて整えてやればよい。別解として、「うらやみ」の裏返しとしての「恥」を書いてもよい。その場合は後半が「威子とは異なり、一人だけ生き長らえている自分を恥ずかしく思っている。」となる。
なお実際には、彰子は威子の死後も四十年近く生き、先立った人々の菩提を弔うとともに、父道長亡き後の藤原氏をしっかりと支えていったという。
その年は、裳瘡が夏から流行して、人々が罹患したが、威子は、流行の初期には、そのようではいらっしゃらなかった〈=かかりなさらなかった〉のだが、(そのうちに)そのような〈=かかりなさったという〉ご兆候が出なさった(、その)病状を口実としなさって、九月三日頃に尼におなりになった。そうなる〈=威子が出家なさる〉のは当然のこととはお思いになりながらも、(その現実に)直面しては、鷹司殿の上〈=倫子〉も、お仕えする女房たちも(威子の出家を)ひどく悲しいことだと感じ申し上げなさっている。(威子の)たいそう美しい御髪をすっかり切りそろえ申し上げてしまったので、(威子が)すっかり別人のようでいらっしゃるのも、はなはだしく悲しいことである。
九月六日に(威子が)お亡くなりになってしまったので、どうにも言いようがないほど悲しい。姫宮たちが幼いお心の内にも途方に暮れなさり、(母である威子を)恋しく思い申し上げなさっているさまは、たいそうしみじみと心を動かされる。女房たちが、声を限りとひどく泣いているさまは、言葉では表しがたい。いくら(威子が後一条天皇の死の)悲しみに暮れているからといって、このように望み通りになるようなこと〈=愛しい後一条天皇の後を追うかのようにこの世を去ること〉はなかなか実現しがたいものであるのに、(それを成し遂げたかのようなこの中宮の死は)たいそう驚くばかりで悲しいことである。
威子の娘たちが彰子〈=女院〉(のもと)を訪れなさった折(に母の威子にお会いしたの)はほんの先日のことだよ。(後一条天皇の死の悲しみのあまり寝込んでいる)日頃とは異なり起きなさって(姫宮たちに)会い申し上げなさった(中宮の)ご様子は、涙に暮れて日々を過ごしなさって、(身なりを)取りつくろいなさることもなかったけれども、(その日は)御髪は美しく、まったく乱れなさらず、およそ重々しく立派であったご様子でいらっしゃった。
いろいろと思い出し申し上げることが多く、女房たちが悲しみ思い乱れる中でも、出羽弁は(後を追って)死ぬに違いないと、人々は気の毒がる。(威子の亡骸が置かれた)母屋の御を少し上げ申して(お供えの)お膳をさしあげる。お世話役は命婦の君。左衛門内侍、侍従内侍、出羽弁などのような人々がお供え申し上げる。(威子が)普通で〈=元気で〉いらっしゃった時に、そういうこと〈=ご給仕〉をおつとめ申し上げた人々よりも、格が上の人を使って給仕申し上げなさる。
頼通殿は喪に籠もることはなさらず、大嘗会、御禊(新天皇即位に伴う朝廷の儀式)などを執行なさっているので、数日が過ぎ、ゆっくりできるようになった時になって、(威子の死による)しみじみとした悲しみはつのっていく。「物事がはっきりと感じられるようになった今日は(その悲しみの深さを)どうしようもない」というのは、本当のことだなあ。女院は、たいそう深い悲しみをますますお感じになり、「私の命の長いことが恥ずかしい。中宮は思い通りになったかのように〈=愛しい後一条天皇の後を追ったかのように〉この世を去りなさった。(私は)このように(中宮に)先立たれ申し上げて、一日でも生きていようなどと(かつて)思ったであろうか、いや、思わなかった」とお考えになり(そのように)おっしゃる。
こうして、鷹司殿では、時節までも(ちょうど)ひどくもの悲しく、秋の終わり頃で、「あるを見るだに(生きているのを見てさえ⋯⋯)」と(歌にも詠まれているように)、吹く風も身にしみて悲しく感じられる。植え込みもだんだん枯れてきて、虫の声も弱りがちになり、雁が連なって(空を)渡っていくさまにもはっとさせられ、(かつて)七条の后宮がお亡くなりになった時に、「荒れのみまさる(ますます荒れはてるばかりだ)」と伊勢が言った〈=歌に詠んだ〉ような気持ちも、このようなものであったのだろうか。