『浅茅が露』
『浅茅が露』は鎌倉時代の擬古物語。作者未詳。二位中将(中納言)・三位中将(中将) という二人の主人公と、薄幸の姫君(女君)との物語である。男女の情愛を好む二位中将(中納言)が姫君(女君)との悲恋の物語に関わる王朝的な主人公であるのに対して、道心深い三位中将(中将)は出家の物語に関わる中世的主題を担う主人公である。『源氏物語』の影響を受けているが、『源氏物語』宇治十帖の薫と匂宮が恋をめぐってのライバルであったのとは相違している。『浅茅が露』は、息絶えたはずの姫君を北山で中将が発見し自邸に引き取ろうとするところで途切れ、末尾部は散逸している。
なお、出題にあたって本文を一部改変した箇所がある。
中将は預かっている子どもの話をしようと中納言邸を訪れた。子どもが身につけていた笛が中将には見覚えのある笛なので、思いあたることがあるかと中納言に尋ねると、中納言は探していた笛であるのか確かめたいと言い、子どもの年齢を尋ねる。中将は笛を届けることを約束して出て行った。
待ちわびる中納言のもとに笛と色紙が届けられた。笛はまぎれもなく自分のものであり、色紙に描かれた絵や和歌は恋人とえない悲しみをつづった深く心を打つものであった。中納言は、恋人を探し出す手だてはないけれど、瀬の時から考えても子どもはまぎれもなく自分の子どもであると確信してとめどなく涙を流し、「笛を残したから自分の子どもだとわかったのだ」という歌を色紙に書き加えた。
夕方、中納言は中将のもとを訪れて自分の子どもに間違いないことを告げ、子どもと対面した。子どもは中納言と瓜二つで、女性との契りの深さを知った中納言は涙を流す。預かって育ててくれていた中将に感謝し、近いうちに自邸に子どもを引き取るつもりだと語る。中将は、出産の様子などは細かく話さないまま話が終わる。
語句の意味に関する選択肢設問。
「かへすがへすゆかしくなん」を単語に分けると「かへすがへす/ゆかしく/なん」となる。「かへすがへす」は「本当に」の意味。「ゆかし」は、心がひかれて実際に自分で接してみたいという気持ちを表す言葉である。ここは、中将の預かっている笛と子どもの話を聞いて、半年ほど前から行方のわからない恋人と、彼女に預けた笛のことを、中納言が気にかけている場面であるので、「ゆかし」は「見たい・知りたい」ということである。「なん」は係助詞で、結びの「侍る」が省略されている。「かへすがへすゆかしくなん(侍る)」全体で「本当に見とうございます」となる。よって正解はイ。
【その他の選択肢】
アは、「見てもらいたい」が間違い。中納言は自分が笛を見たいと言っている場面であるのに、「見てもらいたい」は人に見てほしいと頼む言い方である。
ウは、「ゆかしく」の訳出が「奥ゆかしい」となっているのが間違い。
エは、「かへすがへす」の訳出の「なるほど」と、「ゆかしく」の訳出の「聞いた通り」が間違っている。「なん」は係助詞であり、「ん」は推量の助動詞ではないから、「でしょう」という訳出も間違っている。
オは、「かへすがへす」の訳出の「折り返し」と、「ゆかしく」の訳出の「知らせ」が間違い。「知らせる」のではなく、「知りたい」のである。また、「〜て下さい」に該当する語句が二重傍線部に存在しない。
「なべてにはありがたきさまなり」を単語に分けると、「なべて/に/は/ありがたき/さま/なり」となる。「なべて」が打消や反語表現を伴うときは、多く「並一通り・普通」の意味である。「ありがたし(有り難し)」は「存在することが難しい」「めったにない」ことを表す言葉であるが、ここは中納言が恋人の女性の残した和歌や絵の筆の運び、墨のつき具合を見て感慨にふける場面であるから「めったにないほどすばらしい」の意味である。「さま」は「様子」、「なり」は体言に接続しているから断定の助動詞(〜である)である。「なべてにはありがたきさまなり」全体で「普通ではめったにないほどすばらしい様子である」となる。よって正解はエ。
【その他の選択肢】
アは、「ありがたき」の訳出の「大して風情が感じられない」が間違い。
イは、「なべて」の訳出の「並べてはおけないほど」が間違い。
ウは、「なべて」の訳出の「なぜか」、「ありがたき」の訳出の「ありがたくなる気持ちのする」がともに間違い。
オは、「なべて」の訳出の「幼児に持たせておくには」が間違いである。
ⓒ「見はじめたりしに」を単語に分けると、「見/はじめ/たり/し/に」となる。「たり」(〜ている)は存続の助動詞、「し」は過去の助動詞「き」の連体形である。二重傍線部の直後の「夜を隔てんも苦しくおぼえしほど」は、「ん(む)」(〜ような)が婉曲の助動詞、「おぼえ(おぼゆ)」が「自然と思われる・感じる」という意味の語で、「夜を隔てるようなこともつらく感じたころ」であるから、「見はじめ」は「瀬を持ちはじめ」ということ。「見はじめたりしに」全体で「瀬を持ちはじめていたころに」となる。「見はじめたりしに、夜を隔てんも苦しくおぼえしほどの形見にとどめし笛を」は中納言が過去を回想している部分である。よって正解はオ。
【その他の選択肢】
アは、「見はじめ」の訳出の「笛の稽古をはじめ」が間違い。
イは、「見はじめ」の訳出の「夕月夜の空を眺め」が間違い。空を「ながむる」のは絵に描かれている女房である。中納言が眺めていたのではない。
ウは、「見はじめ」の訳出の「描かれた絵や歌を見はじめ」が間違い。
エは、「見はじめ」の訳出の「自分の子どもをはじめて見」が間違い。まだ子どもとは対面していない。
敬意の対象に関する選択肢設問。
センター試験、私立大学などを始め、入試では頻出の設問である。敬意の対象は、以下の原則に基づいて把握する。
「一日取り寄せて見候ひしか」は、先日笛を取り寄せて見たと中将が中納言に語っている話である。「候ひ(候ふ)」は丁寧の補助動詞で、丁寧語は聞き手を敬う敬語であるから、敬意の対象は中納言である。よって正解はイ。「侍り」「候ふ」の用法には、〈〉謙譲の動詞、〈〉丁寧の動詞、〈〉丁寧の補助動詞の三種類があるが、ここの「候ふ」は上に「見(見る)」という動詞があるから丁寧の補助動詞である。
「笛のしるしまことならば、聞こえさせ侍らん」は、笛が本当に中納言のものならば中将に知らせようということである。「聞こえさせ(聞こえさす)」は謙譲の動詞で、謙譲語は客体を敬う敬語であるから、敬意の対象は中将である。よって正解はア。
「今日を過ぐさず参り侍る」は、今日のうちに中納言が中将のもとに参上したということである。「参り(参る)」は謙譲の動詞で、謙譲語は客体を敬う敬語であるから、敬意の対象は中将である。よって正解はア。
「生まれ給ひしほど」は、児(子ども)が生まれたときということである。「給ひ(給ふ)」は尊敬の補助動詞で、尊敬語は主体を敬う敬語であるから、敬意の対象は児。よって正解はウ。
文法の記述説明の設問。
Ⓧ助動詞の「に」の識別は、〈〉連用形に接続しているならば完了の助動詞「ぬ」、〈〉体言・連体形に接続しているならば断定の助動詞「なり」と考える。「絶え」が下二段活用の動詞「絶ゆ」の未然形か連用形なので、「に」は完了の助動詞「ぬ」であり、下に「けり」があるから「に」は連用形である。
Ⓩ「知ら」が四段活用の動詞の未然形で、女性との契りの深さが自然と思い知られるということであるから、「れ」は自発の助動詞「る」。下に「侍れ(侍り)」という敬語動詞(用言)があるので連用形である。
内容読解に関する記述設問。
内容説明の問題は、〈〉傍線部を逐語訳する、〈〉自分の理解を付け足す、〈〉求められた形にする、の手順で行う。
まず傍線部①を逐語訳するために単語に分けると、「参らす/べき/よし」となる。「参らす」は謙譲語で「差し上げる」、「べき(べし)」は現実的具体的な状況をもとに推量したり、自分の強い意志を表す助動詞で「〜にちがいない・〜つもりだ」、「よし」は「べし」の連体形に接続しているから体言の「由」で「こと」と訳出すればよい。形容詞の「良し」ではない。「参らすべきよし」全体で「差し上げるつもりであること」となる。ここは、子どもの持っていた笛の話に興味を持った中納言のために中将が自宅に笛を取りに帰る場面であるから、傍線部①全体で、中将が「中納言のもとに子どもの持っていた笛を届けるつもりであること」を約束したという内容になる。子どもと対面するのは先の話であるから「参らす」は「子どもを参上させる」ではない。
和歌の内容読解に関する記述設問。
和歌の説明問題も、手順は通常の説明問題と基本的には同じである。
〈〉逐語訳をしてみる、〈〉「誰が、どのような状況で、どのような心情で詠んでいるのか」ということを土台に修辞技法を考慮して、「何をどのように詠んでいるか」を考える、〈〉求められた形で説明する、という順序で考える。
〈〉傍線部②を逐語訳すると、「誰が訪れるはずかと松虫が鳴く」となる。「訪ふ」は訪れる、「べし」(〜はずだ)は当然の助動詞、「まつ虫」は「松虫」である。松虫はただ鳴くだけであり、「誰が訪れるのだろうか」と考えたりはしない。何か言いたいことが他にあると気付かねばならない。
〈〉この和歌の側に描かれている絵は、粗末な家の軒端の荻と、夕月夜の空を「ながむる」女房である。「ながむ」は、物思いにふけりながらぼんやりと見る様子を表す言葉である。物思いにふけるとは、悲しみや悩みにばかり心を奪われていることである。空をぼんやり見ながら「誰訪ふべし」と物思いにふけっているのは松虫ではなく、女房である。その女房の絵を描いたのは中納言の恋人であり、彼女は中納言に事情を告げないまま姿を消して、どこかで一人寂しくひたすら悲しみに沈んでいた。松虫の鳴き声を聞きながら、女性は物思いにふける自分の姿を絵に描き、自分の悲しみを歌に詠んだのである。姿を隠した女性自身が「誰訪ふべし」と思っていたのであり、「誰訪ふべしとまつ虫ぞ鳴く」は姿を消した女性の心情としてとらえねばならないのである。
行方も告げずに女性は姿を消したのだから、中納言は女性のもとを訪れることができるはずがない。「誰訪ふべし」は「誰が訪れるはずか、いや、誰も訪れるはずがない」という反語になる。「まつ虫」の「まつ」は女性が中納言を「待つ」ということ、「鳴く」は女性が悲しくて「泣く」ということである。「まつ」と「鳴く」はそれぞれ掛詞になっている。姿を消した女性は、待っていても中納言は訪れて来ないと泣いていたのである。女性が一人姿を消して中納言にえないままで一人寂しく悲しんでいることと、そのことを和歌で「誰訪ふべしとまつ虫ぞ鳴く」と詠んだこととの双方に関わる同音異義語が掛詞である。
〈〉以上をもとに考えると、「待っていても誰も訪れて来ないはずだと、松虫の鳴き声を聞きながら寂しい思いで女性が泣いている様子」となる。
和歌の内容読解に関する記述設問。
手順は問五と同じである。
〈〉傍線部③の和歌を逐語訳する。「笛竹の一節の節」は一本の笛竹のこと、「とどめ(とどむ)」は留める・残す。「Aずは、Bまし」は反実仮想で「もしAでなかったならば、Bだったろうに」と訳し、「いかで」は「どうして」であるから、全体で「もし一本の笛竹を残さなかったならば、私のこの音ともどうして知っただろうか」となる。
〈〉ここまでに書かれていることは、中将が中納言に、預かっている子どもと添えられていた笛の話をする、中納言は心当たりがあり、笛を見せてほしいと中将に頼み、子どもの年齢を聞く、中将から届けられた笛は中納言のものであり、色紙の歌と絵には恋人とえずに悲しむ女性の姿が描かれていたので、中納言は涙を流す、記されていた子どもの誕生日も、中納言と女性が瀬を持った日から考えてわが子に間違いのないものであった、中納言は色紙に和歌を書き添える、ということであり、中納言は笛と色紙を見てわが子であるとわかって歌を書き添えているのである。
傍線部③の和歌にはこの中納言の思いが述べられている。「わがこの音」には「私のこの(笛の)音」と「わが子」との二つの意味が掛けられている。ここは、笛の音色の話をしている場面ではないので、中納言の言いたいことは「わが子」の方である。また、自分の子どもだと中納言はわかったのだから、「いかで知らまし」は「どうして知っただろうか、いや、知ることはできなかっただろうに」ということで、反語である。傍線部③の和歌の解釈は「もし一本の笛竹を残さなかったならば、私の子どもともどうして知っただろうか、いや、知ることはできなかっただろうに」となる。
〈〉以上をもとに、中納言の言っていることを考えると、「笛を残しておいたから、中将の言う子どもがわが子であるとわかったということ」となる。
現代語訳に関する記述設問。
現代語訳は、傍線部を単語に分け、一単語ずつ現代語に置き換える作業である。その逐語訳を土台にして、自分の理解を付け足していくことになる。
品 詞 分 解
「御鏡の影」は「御鏡の顔」のことを表す。ここは中納言が子どもの顔を見て自分の鏡に映った顔とそっくりであると気付く場面である。「まがふ」は「間違う」ということ、「べく〜あら」は「べから」と同じで「〜はずだ」、「ず」は打消(〜ない)、「見え(見ゆ)」は「見える」、「給ふ」は尊敬の補助動詞で「お〜になる」と訳す。「見え給ふ」で「お見えになる・見えていらっしゃる」とすればよい。よって全体で「子どもは、中納言の御鏡に映る顔にも間違うはずもないほどよく似ているように見えていらっしゃる」となる。
内容読解に関する選択肢設問。
まず、傍線部⑤の「かかる」は「このような」、「しのぶ草」は「人を思い出すもととなるもの」、「種」は「原因・もと」、「べし」(〜はずだ・に違いない)は当然の助動詞、「侍り」(〜ます)は丁寧の補助動詞であるので、全体で「『このような人を思い出すもととなるものを取るに違いない』とは思いも寄りませんでした」となる。
次に、傍線部直前の「行方も知らずなりしを、月ごろ、いづくにあるらんとばかりたづねまほしく侍りつれど」は、(注)の中納言の「恋人は半年ほど前から行方がわからなくなっている」こと、「月ごろ」は「数か月」、「いづく」は「どこ」、「らん」(〜ているだろう)は現在推量の助動詞、「たづね(たづぬ)」は「探す」、「まほしく(まほし)」(〜たい)は願望の助動詞、「つれ(つ)」(〜た)は完了の助動詞であるので、全体で「恋人の行方もわからなくなったのを、ここ数か月、どこに暮らしているのだろうかとばかり探したくございましたけれども」ということである。ここは中納言がわが子と対面している場面であり、中納言は自分とそっくりなわが子と対面して行方の知れない恋人を思い出しているのである。よって「しのぶ草の種取る」とは「中納言が、行方不明の恋人を思い出すもととなるわが子と対面する」ということである。正解はウ。「しのぶ草」の「しのぶ」は「人を思い出す」ということであり、「我慢する」ではない。中納言が我慢していることは本文に書かれていない。
【その他の選択肢】
アは「恋人が⋯子どもを奪い取りに来る」が間違い。行方のわからないまま恋人は息絶えている。また、「しのぶ」の訳出が「我慢する」になっているのも間違い。
イは「中将には昔の恋人に対する愛情が⋯残っている」が間違い。昔の恋人がいるのは中納言である。また中納言が探していたのは恋人であり、中将に言われるまで子どもがいることを知らなかったので、「探しても見つからなかった子ども」も間違い。
エも「中将の恋人」が間違っている。また中納言は笛や絵を一人で見たのであるから、笛と絵を「子どもと一緒に見る」も間違い。
オは「中納言が⋯我慢できずにいる」が間違い。また、今は中将が子どもを預かっているが、中納言は中将に向かって「渡し侍らん」(子どもを引き取りましょう)と言っており、今後は、中納言が子どもを自邸に引き取って育てることになるのであるから、「中将は⋯養育することになる」も間違いである。
(中将は)「不思議なことがございますのを、相談し申し上げようと思いまして。この先ごろ、思いがけない者が、大夫の乳母のところに、たいそうかわいい子どもを残して去っていましたので、頼りとするはずの事情があるのだろうかということで住まわせていますと聞いていますけれども、これが母の形見だといって身につけている物がございますが、笛でございますと申しましたのを、不思議に思って先日取り寄せて見ましたところ、見た気持ちがしますことよ。本当に、もしかしてそのようなことも思いあたりなさるか」とおっしゃるので、不思議で、気にかかりなさる笛のことであるので、(中納言は)「思いあたることはございませんけれども、調べたい笛でございます。それを見とうございます。子どもは何歳ぐらいでいるのでしょうか」とおっしゃると、「十月ぐらい(の生まれだ)とか申しました」「もし、笛の証が本当であるならば、申し上げましょう。本当に見とう(ございます)」とおっしゃるので、すぐに届け申し上げるつもりだということをおっしゃって、お出になった。
気がかりにお待ちになるうちに、すぐに届け申し上げなさった。御覧になると、間違えるはずもないその笛である。
それとなく書いている色紙の字や、絵などの筆の流れや、墨のつき具合まで、普通ではめったにないほどすばらしい様子である。みすぼらしい家の軒端に荻があり、夕月夜の空をぼんやりと見ながら物思いにふける女房を描いているところに、
訪れよとも思わない荻の上風が、事があるとまず返事をすることだ。
夕暮れは、の根本の白露に、待っても誰が訪れるはずかと松虫が鳴くように泣く。
また、苦しそうな様子で横になっているところに、笛を手でもてあそんで横になりながら、涙をぬぐっているところに、
笛竹の悲しい一本を形見としてこの世は長い間音が途絶えてしまったなあ。
古人の歌も、このような趣向ばかりを、書いては消し書いては消しされている。
じっと見ると、涙は音を立てる滝のようにこぼれなさった。瀬を持ちはじめていたころに、夜を隔てるようなこともつらく感じたころの形見として残した笛を、今日は自分が形見として見なければならないことよ。この世には生きているのか生きていないのかを尋ねることができる手だてもない。子どもが生まれた月日も書きつけている。十月十日とある。以前の方違えのころから間違えるはずもない。
もし一本の笛竹を残さなかったならば、私の子どもともどうして知っただろうか、いや、知ることはできなかっただろうに。
と書き添えなさる。
暮れたので、すぐに中将のもとにいらっしゃって対面なさって、「間違えるはずもございません。思いがけない気持ちで、会いたくて、今日のうちに参上しています」と申し上げなさると、「事情がわからないことがございますので。たいそう失礼であるだろう(けれど)」と言って、抱いてお出しになっている子どもは、乳母の様子などが風情のなくはない。灯台近くにじり寄って御覧になると、慣れ親しんでいる様子で、子どもは、)自分〈=中納言〉の御鏡に映る顔にも間違うはずもないほどよく似ているように見えていらっしゃる。「愛情は浅くないのに、訪れることもなくておりましたのを、私をも恨めしく思うこともあったのだろうか、行方もわからなくなったのを、ここ数か月、どこに暮らしているのだろうかとばかり探したくございましたけれども、このような思い出すきっかけの子どもと対面するはずだとは思いも寄りませんでしたけれども、宿縁の浅くないことも、今痛感せずにはいられません」とおっしゃるけれども、御涙がこぼれてしまったのを、浅くなかった宿縁だと御覧になると、もっともで、風情があったあの人の様子だよ、他人である自分までも忘れにくいと感じなさるので、この子どもを見つけていたことも、ありのままに(言うの)は煩わしいので、言い直しながら申し上げなさる。(中納言は)「きっと行方なくさすらうに違いなかったのに。引き取りなさった御宿縁は、同じこととしてお思いになって世話をして下さい。近いうち、ふさわしいような日暮れに、引き取りましょう」とおっしゃるので、お生まれになった時の様子をも、思いがけず世話したことなどは申し上げなさらない。