(中将)「あやしきことの侍るを、聞こえあはせんとて。この過ぎぬるころ、(注)思ひかけぬ者の、大夫の乳母のもとに、いとらうたき児をうち捨てて侍りければ、(注)かこつべきゆゑやあらんとて置きて侍ると聞きて侍るに、これなん母の形見とて添へたるものの侍るが、笛にて侍ると申ししを、あやしくて一日取り寄せて見候ひしかば、見し心地のし侍る。まことや、もしさることも思し寄る」とのたまふに、あやしく、(注)御心にかかる笛のことなれば、(中納言)「思ひ分くことは侍らねど、たづねまほしき笛になん侍る。かれを見候はばや。児はいくつばかりに侍るらん」とのたまふに、「十月ばかりとかやぞ申し侍りし」「いま、笛のしるしまことならば、聞こえさせ侍らん。ⓐかへすがへすゆかしくなん」とのたまへば、たち返り①参らすべきよしのたまひて出で給ひぬ。
心もとなく待ち給ふに、やがて奉り給へり。見給へば、まがふべくもなきそれなり。
まぎらはしたる色紙の手習ひ、絵なんどの筆の流れ、墨つきまで、ⓑなべてにはありがたきさまなり。あやしき家の軒端に荻あり、夕月夜の空をながむる女房描きたるところに、
訪へとしも思はぬ荻の上風ぞ事しもあればまづ答へける
夕暮れはがもとの白露に②誰訪ふべしとまつ虫ぞ鳴く
また、悩ましげにて臥したるところに、笛を手まさぐりにて臥しつつ、涙を払ひたるところに、
笛竹の憂き一節を形見にてこの世はながく音ぞ絶えⓍにける
(注)古きも、かやうなる筋のみ、書き消ち書き消ちせられたり。
つくづくと見るに、涙は滝の音のやうにこぼれ給ひけり。ⓒ見はじめたりしに、夜を隔てんも苦しくおぼえしほどの形見にとどめし笛を、今日わが形見に見るべかりける。世にはあるかなきかをたづぬべきたよりもなし。児の生まれける月日も書きつけたり。十月十日とぞある。ありし方違へのころよりまがふべくもなし。
③笛竹の一節の節をとどめずはわがこの音ともいかで知らまし
とぞ書き添へ給ふ。
暮れぬれば、やがて中将のもとにおはして対面し給ひて、「まがふべくも侍らず。うちつけなる心地に、ゆかしくてなん、今日を過ぐさず参り侍る」と聞こえ給へば、「行方知らぬことなん侍れば。いと無礼ならん」とて、抱き出だし給へる、乳母のさまなんどゆゑなからず。灯台近く居寄りて見給へば、馴れたるやうにて、④わが御鏡の影にもまがふべくもあらず見え給ふ。「あはれ浅からずながら、とぶらふこともなくて侍りしを、我も恨むることもやありⓎけん、行方も知らずなりしを、月ごろ、いづくにあるらんとばかりたづねまほしく侍りつれど、⑤かかるしのぶ草の種取るべしとは思ひ寄らず侍りけるに、契り浅からずも、今こそ思ひ知らⓏれ侍れ」とのたまへど、御涙はこぼれぬるを、浅からざりけると見給へば、ことわりに、あはれなりし人の気色ぞかし、よその我さへ忘れがたくおぼえ給へば、この児見つけたりしこともありのままにはくだくだしければ、ひき直しつつ聞こえ給ふ。(中納言)「行方なくさそらへぬべかりけるものを。とどめさせ給ひける御契り、同じことに思し育ませ給へ。このほど、さりぬべからん日暮れに、渡し侍らん」とのたまふに、生まれ給ひしほどの有様をも、思ひかけず見しことなんどは聞こえ給はず。
(例)笛のことなれば断定の助動詞「なり」の已然形