『伊曾保物語』は、江戸時代前期の仮名草子。現代でも親しまれている『イソップ物語』を文語に翻訳したもの。訳者不明。
本文は、『伊曾保物語』下話で、『伊曾保物語』の最後を飾る寓話である。本文の内容は次の通りである。
ある法師が、道ばたで一人の盗人と出会い、僧〈=法師〉のお祈りによって悪心を追い払って善人にしてもらいたいと依頼され、法師はそれを引き受けた。
その後、かなりの時が経って再会したが、盗人が悪心が全く収まらないので、僧をなじったところ、僧は一計を案じて喉の渇きを訴え、井戸の中へ入っていった。
僧が水を飲み終えたので、盗人が引き上げようとしたがいっこうに上がらない。見ると、僧がそばにある石にしがみついていた。
僧が、私が石を放さないとどんなに引いても井戸から上がらないように、盗人が悪念を放さなければどんなに祈っても善人にならないのだと諭すと、納得した盗人はその場で出家して僧の弟子となり、本懐を遂げた。
助動詞の文法的意味と活用形を確認する設問。
波線部「られ」は、まず、下の「ぬ」の意味を確定する。完了の助動詞「ぬ」の終止形と打消の助動詞「ず」の連体形が考えられるが、文末にあり、上に係助詞がないので、ここは完了の助動詞「ぬ」の終止形。よって、「られ」は、助動詞「らる」の連用形と判別できる。助動詞「らる」には、①受身②尊敬③可能④自発の四つの文法的意味がある。ここは、「同意し承諾なさった」と、②尊敬の意味にとるのがよい。よって、これが誤り。
波線部「たく」は助動詞「たし」の連用形で、希望の意味を持ち、現代語の「〜(し)たい」につながるものである。
波線部「ん」は、①推量②意志③勧誘・適当④仮定・婉曲などの文法的意味を持つ助動詞「ん(む)」の終止形である。ここは、盗人が、水を飲み終えた僧を「引き上げ申し上げよう」と言っているのだから、②意志の意味である。主語が一人称である場合は、②意志の意味になることが多いので覚えておこう。
波線部「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形である。下に「き」「けり」という過去の助動詞がついて「にき」「にけり」と続く場合は、ほとんど完了の助動詞「ぬ」の連用形になるので覚えておこう。
ある法師が、道を歩いていた所に、盗人が一人で向かって行って(会って)、この僧をあてにし(て言っ)たことには、「お見受けするところ、並々でなく高貴なお坊さんである。私はたぐいない(ほどの)悪人であるので、どうかお祈り(の力)によって私の悪心を翻して、善人となりますように神仏に祈り誓ってくだされよ。」と申し上げたところ、(僧は)「それこそ私にはごく簡単なことである。」と同意し承諾なさった。この盗人も繰り返し繰り返し頼んで、その場を去って行った。
その後、かなりの日時が経って、この僧と盗人とが出会った。盗人が、僧の袖を引きとめて、怒って申し上げたことには、「私はあなたをあてにするというのに、その効果がない。神仏に祈り誓ってくださらないのか。」と申し上げたところ、僧が答えて言うことには、「私はその日よりわずかの間の暇もなく、あなたのことばかりを祈っています。」とおっしゃるので、盗人が申し上げたことには、「お前さんは出家した(僧の)身であるのに、噓をおっしゃるのだなあ。(私は)その日から悪念ばかり起こるのです。」と申し上げたので、僧は一計を案じて、「急に喉が渇いて仕方がない。」とおっしゃると、盗人が申し上げたことには、「ここに井戸がありますよ。私が上から縄を付けて、(あなたを)その底にお入れ申し上げよう。満足するまで水をお飲みになって、上がりたいとお思いになりますならば、お引き上げ申し上げよう。」と約束して、(僧を)前述の井戸へ押し入れた。
この僧が、水を飲んで、「引き上げてください。」とおっしゃる時、盗人は力を出して「えいや。」と引くのだが、少しも上がらない。「どうして(こうなるのか)。」と思って、下を向いて(井戸を覗き込んで)見ると、どうして上がるはずがあろうか、いや、上がるわけがないほどに、この僧が、そばにある石にしがみついているので、盗人が怒って申し上げたことには、「なんとまああなたは愚かな人だなあ。そんなこと〈=そんな様子〉では、どうして祈禱も効果があるだろうか、いや、ないだろう。その石をお放しなさい。簡単にお引き上げ申し上げよう。」と言う。
僧が、盗人に申し上げたことには、「そういうわけだから、私があなたの祈念をいたしても、このように〈=今のような状態に〉なるのですよ。どのように祈りをするといっても、まず御自分が悪念の石からお離れにならずにおりますから、鉄の縄で引き上げるほどの祈りをするからといって、たとえ鉄の縄は切れても、あなたの(持つ)ような強い悪念は、善人になることが難しいのです。」と申し上げられたので、盗人は頷いて、この僧をお引き上げ申し上げ、(その)足もとにひれ伏して、「もっともだなあ〈=全くおっしゃる通りだ〉。」と申し上げて、それからは元結を切って、すぐに僧の弟子となって、この上ない善人となってしまったということだ。